「ボランティア活動」というと、私はボランティアを「する側」の立場でしか考えたことがありませんでしたが、今日はボランティアを「受ける」側の人の気持ちってどうなんだろう?と考えました。
というのも、つい最近ある障害者の方が書かれた詩を読んで、私は大変な衝撃を受けたからです。
この詩はボランティアを「受ける」側の気持ちを詠んだもので、今から34年前に書かれた詩です。
今と時代背景や人々の考え方も違いますが、ナントも激しい感情の奥に、この詩を書かれた方の切なさが詰まった詩だと思いました。
皆さんはどのように感じますか?
全文ご紹介しますので是非お読みください。
ボランティア拒否宣言
《花田 えくぼ》
それを言ったらオシマイと言う前に 一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの 向こうにしかハジマリは無い
その向こう側に 私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ
ボランティアこそ 私の敵
私はボランティアの犬達を 拒否する
ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たくみ)に甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わずか)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上がっている
ボランティアの犬達は 私を優しい青年達の結婚式を飾る哀れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を 夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼らの子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なを確かな権利であると主張さ
せる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる
私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされた
汚い手で顎(あご)をさすられた
私はもう彼らをいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛みついてやる
ごめんね 私の心のかわいそうな狼 少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で オシマイの向こう側に 車椅子を漕ぎ出すのだ