先日、NPO法人カタリバという団体が主催する、ヤングケアラー支援のオンラインイベントに参加してきました。
まだ公的な支援も整備されてない中で、ヤングケアラーの子供達の為に、皆さんとても頑張っている!
その中で私が特に印象に残った言葉がありました。それは、「子供達はSOSを出せない」という事です。これは、子供たちは大人との心理的な壁があって周りの大人に「助けて欲しい」と言えないだけでなく、何をどう助けて欲しいかを相手に話す技術も持っていないという事です。それに家庭と学校という狭い社会しか知らない子供たちは、例えば自分の恵まれている環境に対して幸せを感じることができないのと同じで、例え自分が生活している環境が劣悪であったとしても、そもそも不幸と感じてないことが多いからSOSを発信する発想すら持たないということです。
これを聞いた時、「確かにそうだよな〜」と妙に納得しました。
自分の子供の頃を思い返しても、大人は子供の自分達より強い立場の人々であって、下手なこと言うと怒られるという心配もあるので、そもそもが自由にものを言える関係ではないという感覚を思い出しました。
ところで、先日埼玉県で起きた、中学3年生の男の子が自宅で死亡した事件。ご存じでしょうか?
この子は幼い兄弟の世話をするために小学5年生の頃から学校に行っていなかったそうです。この話題が、オンラインイベント中に出た時、参加者の誰もが「この不幸な男の子と、男の子にそのような生活を強いた酷い親」という認識に包まれました。
しかしこれは私の想像ですが、この子は普段「自分は不幸だ」とは思っていなかったような気がします。彼自身、何となく周りの子供たちと違うことに違和感を感じながらも、むしろ学校に行かず、幼い兄弟の世話をしながら暮らす事が彼の日常であって、その生活の中には彼なりの、くつろぎと、笑いと、自分の役割と、家族の一員として暮らす安心感もあったのではないかと思います。それに彼の親も「学校になんて行かなくていい。」という発言をしていることからも分かるように、学校よりも年上の兄弟が下の子の世話を優先する事は、この親なりの当たり前の価値観だった。
そんな風に彼と彼の親の気持ちを想像してみた時、「これじゃぁ、この子もこの親も、周りの人にSOSを出す訳はないなぁ」と感じました。
家庭という小宇宙。自分の固定観念をどこまで捨てて寄り添えるか。対人支援の難しさを考えさせられた時間でした。