ヤングケアラーの体験を公表する難しさ

本日、私の生まれ故郷の福井新聞社の記者の方から、漫画の記事を取材させてほしいと依頼を受けました。普通新聞取材の依頼ならば、「喜んで!」とばかりにお受けするのですが、なぜかこの時は私の中で躊躇してしまいました。

なぜなら私の地元にいる家族や親せきが、この記事を読むことになるからです。

自分の心の傷は、同じように私の身内も心の傷として持っています。その傷が癒えているかどうかは人それぞれ違うので、たとえ30年以上前の事と言えど、母の事が記事になることで傷つく家族もいるかも知れないからです。

結局はその取材はお断りしました。

昨日ヤフーニュースにも、テレビ放送があったことの記事が出ました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5655d2604f4607996b991e4e11fd87e2b13d3536

このコメント欄にもやはりこの様な心無いコメントがありました。

「この人お母さんが認知症になった時、お兄さんが大学進学を口実に自分だけ逃げたんですよね。お兄さんは恥ずかしいと思わなかったんでしょうかね。」

「だいたい父親が責任から逃げているのだから、子供が逃げることを責められるのはおかしいですよ。」

漫画では伝えきれない家族の苦しさ。兄の辛さも、父の辛さも・・・

当事者の家族にし分からないものがどうしてもあるのです。今回は、原作者としてその部分が伝えきれないかったことが心残りだと思っています。

だからこの場を借り、せめて兄の事情だけでも書かせて頂きます。

兄は私の6歳年上で、私が小学6年生で母親の世話をしていた時は高校3年生でした。兄は私と二人きりになるとよく、「おまえは自由に自分の人生を決められていいなぁ」「お兄ちゃんは、魚屋にはなりたくないんや。」と言っていました。兄は小さなころから両親から家業の魚屋を継ぐように言われていて、本当はそれが嫌で嫌でたまらなかったのです。だから、兄がその呪縛から逃れて自分の人生を歩むためには、良い大学に進学して、公務員や大企業に就職することが、両親を納得させることができる唯一の道だったのです。だから兄は高校3年生の頃には必死に勉強していました。私は兄のそんな気持ちまではわかっていませんでしたが、何となくその必死さだけは感じていました。漫画の中の兄は、とても冷たい人の様に感じるかも知れませんが、本当はそうではなく、兄は高校3年生という自分の人生の分岐点にあって、兄なりに必死で余裕がなかっただけなのです。それにまだその頃は、母も何とか家事を出来ていたのでそんなに手もかからなかったため、暇な私が手伝っていたというだけだったのです。

だから、兄自身も母の病気と自分の人生の葛藤の中で、誰にも相談できずに一人で苦しんでいたのです。漫画の中でそんな事情まで説明するスペースもありませんし、本当に難しいですね。

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